これは、私自身塾の講師だった時の話である。塾は講師と生徒が情報伝達をする場所である。その情報つまり講義をよくするために、私は必至で考えて授業をした、1浪して私のように辛い思いをしてほしくなかったからである。でも、うまく生徒の成績は上げることはできなかった。理由としてはいくつかある。
1.分かりやすい授業をしすぎた
分かりやすい授業をするのはよいことだ。塾以外でもどうやって教えたらいいかと必死に考えたこともあった。内積は余弦定理の拡張だから、ベクトルは高校1年生の内容で理解できるよね?
三角関数、三角比は単位円さえ書けばすべての公式は説明がつき、覚える公式なんてほとんどないよねとか。。。。。
我ながら給料もあまりないながらいっぱいやった。分かりやすい授業をすると、生徒によってはそれだけで理解をして、復讐をしないで一週間後にまた全部忘れてしまうといったこともよくある
なので、自分なりに勉強した後は、実際にいろいろな問題(人生においては課題)を解きまくり体で覚えるしかないのだ。
2.職人気質になりすぎた
塾講師だからと言ってみんなが情熱に燃えてるわけではない。ほとんどの人は、分からないが、ただ生活資金の調達のためという理由で、生徒の学力が目的ではなく生徒と仲良くなってなあなあに過ごしていけばよいという人もいるだろう。なので、そういう人たちとも上手くコミュニケーションが取れずに、業務外の仕事(書類作成など)も多すぎてとうとう精神を病んでしまった。その結果窓際族になって塾をやめたわけだ。アルバイトのいいところは、責任はある程度はあるが、死ぬほどではないということだ。どんなにブラックであるところでもやめようと思えば辞めれる。
バイトの変わりなどいくらでもいるのだ。
最近は、非正規で正社員並みの責任を負わせるというバイトリーダーなるものがあるが、それはおかしい。
バイトというのは、自分に負えない責任は放棄していい。だって給料雀の涙いかだもん
それなのに責任を負わせようという、雇用者ならよだれがでそうなシステムがバイトリーダーだ。
そんな訳の分からない不条理の中にいてあることを考えた。
なにをかというと、
受験時浪人時は、勉強が辛いものだと思っていたが、今は大学、資格の勉強よりも、バイトのくだらない雑用部分が多すぎて、勉強したくても勉強できないと。
勉強は娯楽だと!
ゆえに、勉強することは偉くもなんともない。まずは結果が残らないと意味がないのだ。
できるだけ、今の自分の位置とゴールまでの距離を常に把握するのだ。
なんじ己自信を知れ!
この言葉は有名でいろいろな解釈があると思うが、あの人は頭がいいとか、上司とのコネだけで給料をもらってるとか、、、いいたいことは分かるが、外界ではなく自分に意識を向けてほしいのだ。
自分は何をしたいのか?上司の操り人形なのか?ただの感情を持つコンピューター、機械なのか?
そう思うなら、それでいい。
がそうでないならば私と一緒にもがこう
少なくとも他の人間の言いなりになって自分じゃない人生を生きることよりかはましだ
だから私自身も自分の権利は本来は主張すべきである。なので少なくとも、その練習はしていくべきで、その方法の一つが勉強をして、より良い職場に行ける実力を身につける。もしくは、自分が雇用者側になる、フルーランスになるといったことで自信をつけていくということなのではないか?
言葉が弱いな。自信を思い出すべきなのだ。子供のころは自信があっただろう。なのでそれを思い出すだけでいい(それが難しいのだが)
なので、私自身も自信を取り戻すために様々なことにチャレンジしていこうと思う。